めざせナンバーワンDD

DDを極めすぎたアイドルヲタクの独り言

DDのメカニズム

なぜわたしはこんなにもDDなのか。諸事情により自分を見つめなおす時間が発生したのでわたしのDDが形成されたルーツを振り返ってみようと思った。

わたしが「自分はDDなのかもしれない」と自覚したのは昨年四月のことだった。

それまではまあまあ一途なヲタクだった(当社比)。何グループかのアイドルのコンサートや舞台に通ったり、グッズを買ったり、CDやDVDを友達から借りてみたりはしていた。

ジャニーズが好きだった。舞台装置や豪華な演出を使った圧倒的なパフォーマンスに魅了され、コンサートという空間、時間に惚れ込んだ。嵐からジュニアまで、地元に来る現場は全て行っていた。たまに遠征もした。

だけど常に「一番好きな人」が「担当」であって、それ以外の人のグループについては「誰担?」と聞かれても「エイトなら大倉くんが好き」みたいに濁して回答していた。

中学生のときから今までずっとジャニヲタをしている中で、一度だけ「担降り」をした。

わたしのDDが形成される上で最も影響を及ぼしたのがこの担降りだと自覚している。

この担降りは、わたしの意思というよりは完全に友人に仕組まれたものであった。もともとわたしは周りに影響を受けやすい。

そもそも人生で初めてアイドルを好きになったのも嵐ファンの友達の影響であったし、嵐意外に興味を持つ暇のなかったわたしに過去のバラエティ番組をダビングしたDVDを大量に押し付け、関ジャニ∞、KATーTUN、NEWSとだんだん興味の幅を拡張していったのもまた別の友人だった。

ここまでくるとあとは簡単。インターネットという文明の利器の「関連動画」機能によってわたしの脳はどんどんアイドルに蝕まれていった。

当時わたしは高校二年生。周囲は進路を考え始めているなか、狂ったようにテレビに張り付き、瞳孔を全開にして雑誌を読みあさった。周りには公表していなかった。クラスでも嵐が好きな人、くらいの認識。なにせ進学校だったこともあってか、ジャニーズJrの好きな友達なんていなかった。はずだった。

なのに。今でも忘れない、あの夏の日。3、4時間目の体育でソフトボールをして汗だくだった。とは言っても女子のソフトボールなんてユルユルのお遊びみたいなもので、ものすごく暇だったのでKATーTUNの好きな友人とジャニーズしりとりをしていた。うっかり「阿部顕嵐」と即答しそうになってマズイと思い、少し考えて「赤西仁」と答えた。今思えばどっちも「ん」で終わりだ。バーカ。

更衣室でシーブリーズをバシャバシャと塗りたくり、うちわで扇ぎ涼をとり、ジャージから制服に着替えていた。

なんの変哲もない平和な昼休みが待っているはずだったのに、しりとりをしていた友人がとんでもないことを言い出した。

「メロンパンの好きそうなJr見つけたんだけど」

わたしは必死で「へ、へぇ〜Jrかぁ〜」と愛想笑いを返した気がする。上手くごまかせていたかはわからない。「どんな人?」と聞いたらまさかの回答をされた。

藤井流星って人なんだけど…」

嘘だ、と思った。なぜならスーパーミラクルパーフェクトサンライズ大当たりだった。わたしはすでに藤井流星くんの虜だった。頭の中で友人にファンファーレを送りながらも「あとで画像見せて」と答えた。なぜだ。なぜわかった。

ちなみに悔しかったのでなぜかこの友人にはしばらく意地を張って「重岡くんのほうが好きだわ」とかなんとかほざいておいた。

そして紆余曲折あってわたしはそれまでの青春と情熱を垂れ流しにしていた先である相葉雅紀くんから藤井流星くんに担降りすることになる。

いい忘れていたが、わたしは背の高いバカ(褒めてる)が好きらしい。その他のグループで好きなのは大倉くん、田口くん、玉森くん、マリウスシュミッヒ葉成龍ユリウスくん。誰もが認めるバカであろう。そしてわたしの好きになる基準も大概アホやクレイジー、だ。

大学選びという進路で悩んでいたわたしにとって、デビューしたいという明確な夢に向かって突っ走るJrという存在がやけにキラキラと輝いて見えた。

大学に進学すると、お金が手に入った。わたしのバイト先は少々ブラックだったので周囲に比べてかなりリッチだった。友人がたまたま当てたアラフェスのついでに日生アナザーのチケットをとった。ミスパイロットの撮影でアメリカに旅立った流星くんと成田でニアミスするという不運な事故もあった(笑)

どんどん好きが加速していった。関西Jrから7~8人のユニットのデビューを考えているという我らがジャニー喜多川代表取締役社長様からのお達しもあり、わたしの夢(流星くんの夢はわたしの夢なので)は着々と完成形に近づいていった。

そして来たる2014年1月1日。わたしの世界が崩壊した。もうわたしの脳は流星くんで埋め尽くされていた。そこから2月5日までは記憶がない。世界中の同担も同じだといる。

でもそこからデビューまでは、本当に毎日がキラキラしていた。もうわたしの望みは全て叶ったと思った。

嬉しくて嬉しくて、ええじゃないかを30枚買った。ちなみにイベントには参加していない。学校行事と重なっていたため、最初からする気がなかった。でも30枚買った。単細胞にもほどがある。

そしてわたしの流星くんへの熱はそこから急速に冷めていった。なぜか。なんでだろう。わたしにもわからない。デビューを目指して頑張っていた姿があまりにも素敵すぎたのかもしれないし、ただの気まぐれかもしれない。

いまでもCDもDVDも全盤買うし、写真やうちわも買う。だけど開封せずに放置とかしてしまう。運営にお金を落とすことは厭わないのに本人に対する執着心が急激に失われていった。そして気づいた。わたしは関西ジャニーズJrでデビューを目指している藤井流星くんと、デビューを目指している藤井流星くんがいる関西ジャニーズJrという空間が好きだったのではないか。と。なぜかジャニーズWESTという集団に愛着が持てなくなり、熱が冷めていった。

そんなとき、とあるアイドルグループがわたしの町に初めてイベントで来るという情報を知った。広告に観覧無料と書いてあったので、軽い気持ちで見てみようと思った。ジャニーズ以外のアイドルを初めて生で見た。

結果として、わたしはそのグループにハマることになる。ジャニーズのようなものすごい演出もなければ徹底したブランド化もない。接触を理由にCDをたくさん買わせる手法を使う運営だった。DVDもなにもついてない、収録曲も全く同じ、安っぽいジャケットの同じCDを43枚買うことになろうとは。

わたしはこのグループに関しては接触が命であまり人気が出て欲しくないのでここまで固有名詞を使ってこなかったが、超特急というグループである。ももクロの弟分ユニットだ。

ここからわたしの転落人生は始まった。CDを軽率に買うようになった。このグループの接触イベントに通いつめ、それと並行して女の子アイドルにも手を出すようになった。もともと48系列やももクロ、ハロなども振りコピしたりCDを何枚か大人買いするくらいには好きだったし、なにげに乃木どこなんかは放送開始からほぼ見ていた。でも、茶の間だった。ハロの現場には1回入った。そこでカントリーガールズのデビュー発表があり、初めて見た子たちだったのにデビューに弱いヲタクはぐちゃぐちゃに泣き、ファンになると決めた。

そのあたりの王道有名どころももちろんだが、半地下くらいのアイドルも好きだった。事務所や有名プロデューサーのバックアップのない、それほど年の変わらない女の子たちが輝いている姿を見て元気をもらった。グループ名をあげるとすると、PASSPO☆、Doll☆Elements、夢見るアドレセンス。このあたりだ。知らない人のほうが多いと思う。興味がなくても一度ググってみてほしい。PASSPO☆はライブの映像、Doll☆ElementsはMV、夢見るアドレセンスは静止画を見るのをオススメしたい。それぞれの魅力が1番わかるのはコレだと思う。

キャパが100前後のライブハウスや無銭イベントに通いつめた。週3現場(もちろんグループかぶりなし)なんて時期もあった。

地元にジャニーズが来てくれない間の接続、くらいに思っていた「いろんなグループのライブに行ってみる」という行為が癖になってしまった。

そしてついに、わたしは地下アイドルにまで手を伸ばしてしまった。いわゆるピンチケってやつだ。もともとReadytoKISSというグループを目当てに行った対バンで、ラブアンドロイド、フルーティーと別のグループのメンバーと仲良くなり、そこから芋ズル式に神宿、WHY@DOLL、吉田凜音、dropとものすごい勢いで雑食ヲタクになっていった。

見慣れない固有名詞が多いかもしれないが、全てアイドルのユニット名だ。

ヲタク人生を簡単に振り返ってみて、なぜわたしはDDなのかという謎に迫ってみたが、答えはきっとこれしかない。


気質がありすぎるのだ。


薄々気づいてはいた。振り返ってみる必要すらなかったのかもしれない。もはやきっかけが多すぎてどれが本当のきっかけなのかわからない。ここまで長きに渡って何がきっかけなのか考察してきて、やっぱり1番の原因は「先天的な気質」だと思い当たる。

読んでくれた人に申しわけないくらいのなんの成果もない文章だ。これからもヲタクをやめる気はないしやめられるとも思わない。なにせ現場のために学校に通いながら月150時間以上コンスタントにバイトしていた人間だ。出てと言われなくとも常に人手不足なのはわかっていたし、現場以外のためにバイトを断るという概念がなかった。過労で倒れたことも何度もあるし全力で働きすぎて手首の疲労骨折もした。それでもその少々ブラックなバイトを続けていたのは現場のためでしかなかったので、現場を失ったらそれはすなわち死を意味する。


結局、DDとはなんなのだろう。